2007年4月14日 星期六

インタービューのノート Writed by TakanariRyo

日本語を勉強するきっかけ

  初めて日本語との接触したのは、小学校の頃、父の弟、つまりおじさんからもらった日本童謡・唱歌のテープです。中にはさまざまよい歌が揃われて、「春が来た」、「赤とんぼ」、「かたつむり」、「朧月夜」、「故郷の空」、「故郷を離るる歌」、「故郷」、「ゆうやけこやけ」など、有名で優れてる曲が今だって深く記憶に残っております。また、小学校の頃、日本製のアニメもたくさん見ていました。「母をたずねて三千里」、「ぺリーヌ物語」、「アルプスの少女ハイジ」、「フランダースの犬」、「海のトリトン」、「みなしごハッチ」、今もゆかしく感じますが、昔はあれが日本製のアニメだと意識されていなかった。ながらも五十音と呼ばれる仮名文字の勉強し始めたのは、すでに高校生になったころです。あれ以来、少しずつ日本語を勉強してまいりました。長い時間に勉強の中断したりする時もしばしばありますが、本当に諦めたのは、一度でもなかった。日本語塾へ通ったこともありますが、だいたい独学の部分が多いです。自らもよく「我流日本語」だと言います。そこで会話をする機会が殆どないので一番弱い部分はやはりお喋りと聞き取りだと思います。

なぜ古典日本語まで勉強しますか。

日本語を勉強してる間にたまたま現代日本語文法だけでは解釈できない部分が出てくる。例えば「思わざるを得ない」、「すべからず」、「許すまじき戦争」、また「するべし」、「すべし」;「うる」、「える」どちらが正しいのか、などなど、いくつもあります。私は無理矢理に覚えさせられるだけのことがとても嫌いで、どうしても理解したい気持ちが抑えきれずについつい日本語の古典文法まで遡ったというわけです。そして、勉強すればするほど古典文法の整然たる仕組みに驚かされてしまいました。私はもともと文学に興味のある人ですから、ついに古典文学も惹かれました。

一番好きな歌

ずっと昔から優れてる歌人と秀作が絶えずにドンドン出てくる。気に入ったのはたくさんありますが、ここでは大伴家持の一首を読ませていただきます。

春の苑紅匂ふ桃の花下照る道に出で立つ少女

よく考えてみると、この歌の仕組みは大層単純で二つの体言の並列に過ぎません。「春の苑紅匂ふ桃の」全体は連体修飾として「花」の一語にかかった。「下照る道に出で立つ」も同じく「少女」を修飾する。この「花」と「少女」とは二つは一つ、二つは一つ。イメージが重ねあった。ややこしい文法やら、難しい単語やら、全然使ってないのに、立派な歌が出来上がった。高度な感性も見込めます。これこそ歌人のタクミだと言えるではあるまいか。

仮名遣について

外国人の私から言うととっても僭越かもしれませんが、残念なこと、「現代かなづかい」は「標準語」の發音に基いて定められているものにすぎない。日本語本来のバランスも表意性も論理性も美しさも全く失っていった。現代日本語文法の一部も、表音主義の仮名遣のせいで理屈が立たなくなっている。まあ、「現代仮名遣」を既成事實として仕方がなく、認めるしかないようだが、和歌を詠む場合はやはりなるべく正字正仮名を使ったほうがいいと私はそう思います。

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